座禅 「無になることは、何も考えないことでは無い」「すぐに元に戻ること」

#20 座禅「無になることは、何も考えないことでは無い」「すぐに元に戻ること」

2015-02-22 12.12.01

そうだ座禅会に行こう

ひょんなことから、座禅会に参加することになりました。

仕事やプライベートで予定が詰まり、常に「追われる日々」に押しつぶされそうになった時、「そうだ座禅会に行こう」と思い立ったのがきっかけです。

 

普段、私は人から

「楽観的すぎる」とか

「何を言ってもこたえない奴」

などと言われることが多く、図太い神経と見られているようです。

但し当の本人は独りきりになる時間がないと落ち着かない性格なのです。

 

その証拠に毎朝出勤前に、喫茶店に独りでいます。

目的は今日一日の仕事に対する自分なりの目標と一日の段取りについて

出勤前にまとめることを日課にしています。

かれこれ20年以上になります。

 

特に最近は朝独りで居るときに居心地が悪く感じることが多くなってきたと感じています。

心がざわめき、帰宅電車に乗る前にまた

喫茶店に独りで寄り道し心を落ち着かせる日々が続いています。

 

そうして独りの時間をとり心を落ち着かせようとするのですが、実際は

独りになってもけっこう心配事や後悔の念によりクヨクヨ気にすることが多いのです。

つまり独りになっても落ち着かないのです。

 

目は正面45度下のあたりを自然に見て、細めたり、見開いたり、動かしたりしない

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座禅会の会場は寺ではなく、大学構内です。

というのも、私が参加した座禅会は駒澤大学の日曜公開講座。

大学内といってもきちんとした座禅堂があります。

100名程度が一斉に座禅することが可能なほど大きな講堂のような場所です。

 

畳半畳と板の間からなる「単」(たん)と呼ばれるスペースに坐蒲(ざぶ)という、

いわゆる座布団がありそこで約45分間の座禅をするのです。

 

45分というのは丁度お線香が燃え尽きるまでの時間で仏教用語で炷(ちゅう)と言うそうです。

座禅堂内では沈黙を守ることが規則です。鼻息や溜息なども同様に静粛を保つことが要求されます。

各人の「単」(たん)の正面の壁にそれぞれが対峙し、

足を組み、

法界定印(ほっかいじょういん)という手で楕円の輪っかをつくり、

座禅開始の準備を待ちます。

 

手でつくる楕円の輪っかは宇宙を意味するものだということを後で教えてもらいました。

準備が整うと堂頭和尚(どうちょうおしょう)と呼ばれる、禅堂の和尚つまり座禅の指導者が堂内に入場します。

 

たまたま私が座った場所はこの堂頭の隣の席でした。

初心者なのによりによって堂頭の隣とは

と、心がざわめくのよそに、座禅開始の鐘が鳴ります。

 

いよいよ座禅が始まります。

始まるといっても、何をするでもなく、ただひたすらに壁に向かい沈黙を保つのです。

 

当初座禅の最中のイメージは目を閉じ瞑想にふけるといったものでしたが

座禅前の手ほどきでは

「目は閉じません」

「目は正面45度下のあたりを自然に見て、細めたり、見開いたり、動かしたりしない」

「背筋を伸ばす」

「呼吸は鼻で」

「空想にふけったり、無念無想になろうとしない」

「眠ったりしない」

「ぼんやりしない」

「心に浮かんでくるものを浮かぶに任せ、明瞭な意識のまま一切の努力を止め時の来るまでただ坐る」

というものです。

手ほどきの教えを守りただ坐ることに専念します。

 

こころが落ち着きません。

やっと20分程度がたたでしょうか少し、心が落ち着いてきたときに、ズボンのポケットに入れたスマホのバイブが鳴り出しました。

バイブといっても座禅堂内の静寂の中では、

バイブの振動音は50メートル向うの座禅中の人にも聞こえるのではないか?

と思うくらいにしっかりとした駆動音を一定のリズムで奏でます。

その私の隣には、堂頭和尚が座禅しています。

 

この状況でバイブ音をならせ続ける勇気はありません。

かといって目を開いている和尚の真横で座禅の姿勢を崩しスマホを取り出し止めるにも勇気が要ります。

「どう対処すべきか?」目の前の壁45度下のあたりを見つめながら

 

そうこうしているうちに

バイブ音は鳴りやみました。ホットしました。

しかし、またメールやら電話がかかってこない保証はありません。

鳴っているさなかならまだしも、鳴りやんだこの状態で

「スマホを取り出すきっかけをどうつくるか?」目の前の壁45度下のあたりを見つめながら。

 

この座禅の足を組んだ状態をあからさまに崩さないと、取れないことについてはなぜか冷静に判断できました。

 

どうするのが正解なのかを目の前の壁45度下のあたりを見つめながら考えました。

 

そもそもクヨクヨ考えないようになるためにこの座禅会に参加したのではないか?

それなら、鳴ったら、鳴ったでしようがないと諦めてしまえば良いのではないか?

 

いやちょっと待てよ、その考えは独りよがりでは無いか?

私のスマホのバイブ音で周りの座禅している人への迷惑を考慮していないのでは?

 

足を崩すしてスマホを取る自分が恥ずかしいと思うことを都合よく解釈しているのでは無いか?

目の前の壁45度下のあたりを見つめながら考え続けました。

 

そうした考えが堂々巡りしているうちに、座禅の終了を示す抽解(ちゅうかい)の鐘が鳴り響きました。

 

大事なのは伝わった後にすぐ元の状態にもどること

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座禅会のあと堂頭の熊本先生とお話をさせていただきました。

「無になるとは何も考えないということではありません」

「座禅はがまん大会ではないのです」

「座禅中、目は開いていますし、耳も聞こえます。匂いや雰囲気を感じることもできる状態です。」

「心に浮かんでくるものを浮かぶに任せ、明瞭な意識のまま一切の努力を止め時の来るまでただ坐る」

「脳波で言えば、日常と同じ状態です。違うのは、外の変化が伝わったとしてもすぐ元の状態に戻ることができるということです」

<イメージ図>

 脳波

スマホのバイブが鳴った時、

私の脳波は揺れ動き続けていたでしょう。

もし、すぐに元の状態に戻っていたなら、

あれこれ考えずに、電源を切ることができたのでしょう。または、「また鳴っている」と潔く受け流すことができたのかもしれません。

いずれにせよ、そのことで悩み悶々と時を過ごすことは無かったのだと思います。

 

日常でも仕事でミスをしたり、期待した通りの結果が得られない時、私はそれを引きずってしまっていたのです。

つまり外の変化が伝わった後も脳波は揺れ動き続けていたということになります。

 

変化は自分の意志とは無関係に起こります。そのことに目をつむるのではなく、伝わった後にすぐ元の状態にもどること。

「はい オシマイ」と平常心を保つこと。

座禅は良い訓練になるのかもしれない。そんな体験をしました。

 

禅について浅はかな知識で論ずることを口頭禅と言うそうです。

体得することが旨である禅において、説明するといった行為は本筋では無いということなのですが、自分で体感したこの感覚を忘れないようにしたかったのでこうして書き綴っています。

 

スマホの留守番電話には「帰りにキャベツを買ってきてね、今日はロールキャベツだから」と妻からの伝言が入っていました。

 

 

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